2012年3月1日木曜日

何それは尊敬を得るためにどういう意味ですか?

ものと戦争 : 「ものへの尊敬の感情」試論

佐藤 啓介

書誌情報

『もの研通信』(2003. 3. 19 配信)に寄稿したものに、若干の加筆・修正を加えたもの。あくまで、「個人的」研究であることをご留意ください。なお、2003. 3. 19 とは、イラクに対してアメリカが最後通告を突き付け、今まさに開戦せんとしていた時であり、そのとき緊急で書き記したものです。

■ はじめに

2001. 9. 11 という世界史に一つの切断を刻み込んだ日以降、世界は再び「戦争」という語によって支配されてきた。そして、現在(2003. 4)もまた、イラクにおいて戦争がおこなわれている。

地政学的見解を始め、今起こっている戦争に対しては、様々な言説が語られている。ここで、さらにその言説リストに追加しうる地政学的見解を紡ぎだす知識や能力は、私にはない。ここでは、「もの論」という限られた分野から、この現実に対して私が発信し得ることを、できる限り平易に綴ってみたい。

■ 戦争における大量破壊

「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続にほかならない」。

これは、19世紀初頭、カール=フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』における戦争の規定である(1)。こうした見解に対しては、これまで多くの人々の批判が投げかけられてきたが、その一方で、近現代の戦争論を規定し続けてきた。では、クラウゼヴィッツの言う、政治とは異なる「他の手段」とは何か?それは「物理的暴力」である。クラウゼヴィッツの考える戦争とは、「敵を我々の意志に屈服させるための暴力行為のこと」を指す(2)。

クラウゼヴィッツのように戦争を政治に内包させるかどうか自体、議論の余地があるが、仮にそのことを容認するとして、「暴力」という「政治におけるのとは異なる手段」の根底にあるのは何か?


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その一つは、「ものによって、ものに大量かつ直接破壊すること」ではないか、と思う(ここでいう「もの」には、人間をはじめとする「生き物」も全て含みます)。 文字通り、今回の戦争のきっかけでもあった「大量破壊兵器」、その「大量破壊」こそが戦争の根底の一つをなすと言える(大量破壊兵器を放棄させるために、大量破壊がおこなわれるというこの現実)。

どれだけ情報技術が発達しようとも、どれだけ軍事技術が発達しようとも、たとえ「きれいな戦争 clean war」なる場合においてさえ(そんなものがあるとしての話だが)、戦争においては、常に「ものによるものの直接的大量破壊」が起こる。しかも、言うまでもなく、往々にして無差別的に。他方、政治においては、「間接的」には起こり得るとしても、「ものによるものの直接的大量破壊」はありえない。

■ 現実の消滅

しかし、私たちは、情報の体系、記号の体系、言語の体系の中で、破壊されていく「もの」についての物質的な感覚を喪失しつつある。

例えば、「きれいな戦争」とは、むしろそうした感覚を喪失した状況においてのみ成立する概念であろう。いくらきれいでも、現実には破壊されるものがある。それを忘れたから、きれいに「見える」のだ。確かに、絨毯爆撃のような大量破壊に比べれば、ピンポイント爆撃で破壊されるものは、相対的には減っている。しかし、間違いなく、ものは破壊されている。なのに、「きれいな戦争」というラベル(とそれを支えるメディア装置)の下で、そのことが忘却される。


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フランスの思想家ジャン・ボードリヤールの指摘を待つまでもなく、これは「現実の消滅」という事態であり、私なりの言葉に翻訳すれば「ものをものとして見る眼差し」の消滅である(3)。ボードリヤールは、現実の消滅は止められない不可逆的な過程だと捉えているようである。のみならず、それは世界の最初から組み込まれている過程だとさえされている(4)。

■ ものへの尊敬の感情

しかし、「ものをものとして眼差す」ことを回復することは、本当になしえないことなのだろうか? 身体を含め、「もの」そのものへの感覚を取り戻すことは、なしえないのだろうか? (いや、「取り戻す」という表現自体、かつて既に「もの感覚」が存在したことを前提しているが、そのこと自体、はなはだ怪しいのだが)

言わば、(生き物を含めた)「ものへの尊敬の感情」を取り戻すこと。

「ものへの尊敬の感情」の下では、「ものによるものへの直接的大量損害」など起こし得ないはず。とするならば、私は、「ものをものとして見る眼差し」の重要性を訴えたい。哲学においては、「人格への尊敬の感情」という古典的(かつ常にアクチュアルな)な主題が存在するが、今、この現代においては、「もの」を尊敬することこそが求められているように私には思える。

■ 弱い思想

もちろん、武器としてものが使われ、戦意発揚のためにものが使われ、ものを破壊しつくためにものが使われる。その「もの」の無垢さ、即ち、それ自体としては善も悪も何ら一切の価値を知らず、故に、潜在的には(相反する目的も含め)様々な目的のために「手段として」使われ得るという性質から、眼を背けることもできない。


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また、私のように、「もの」を「生き物」に包摂させてしまう考えは、あまりに性急過ぎる側面もあろう。生き物(特に人間)に、単なる「もの」には還元されない性質を認めようとする立場は、少なからず見うけられる。

しかし、私は、ものの「手段的・道具的性質」および「生き物の特殊性」を認めないわけではないが、過度にそれらを強調することは慎みたい。

何故なら、そうした強調によって、それらの発想の背景にある「手段を用いる行為者たる主体」という前提が、かえって匿われ保護されてしまうからである(5)。だが、こうした前提こそが、「ものによるものの直接的大量破壊」を根底において支えていたのではなかろうか? 即ち、「自らの持つ目的のために、自ら以外のものを意のままにできる」という「強い思想」による前提、それが戦争という「敵を我々の意志に屈服させるための暴力行為」を突き動かしてきたのではなかろうか?

他方、「ものへの尊敬の感情」に支えられた思想とは、イタリアの哲学者ジャンニ・ヴァッティモの言う「弱い思想」である(6)。それは、現代において「倫理的」に必然的に要請される弱さである。それは、決して克服されるべき弱さではない。必要な弱さなのだ。

■ まとめ

「ものへの尊敬の感情」を抱くこととは、このような「弱さ」を身にまとうことである。そうすることによって、「強さ」に固執した結果生まれる「ものによるものへの直接的大量破壊」という悲しむべき暴挙を、我々の世代で打ち止めにすること。これが、私が「もの論」に託する一つの想いである。


今、こうしている間にも、建物が、橋が、森林が、大地が、身体が破壊されていく。その破壊の連鎖を止めるべく、逆説的だが、ものに跪く「弱い理性」を駆使しなければならない。

■ 注

  1. 『戦争論』第1部 第1章 第24命題。なお、使用したテキストは、以下の邦訳である(ただし、一部、邦訳を手直しした箇所がある)。クラウゼヴィッツ『戦争論(上)』(清水多吉 訳), 中公文庫, 2001
  2. 『戦争論』第1部 第1章 第2命題
  3. 「ものをものとして見る眼差し」の詳細については、第1回 Res: もの研究会での私の発表「パンドラの箱の中にあったもの」を参照。
  4. 例えば、以下を参照。ジャン・ボードリヤール(塚原史 訳)『パスワード』, NTT出版。
  5. 同様の主張として、以下も参考になる。Bill Brown, "Thing Theory", Critical Inquiry 28-1 (special issue "Things"), 2001
  6. 例えば、以下を参照。Gianni Vattimo, "Dialettica, differenza, pensiero debole" Il pensiero debole (a cura di Gianni Vattimo e Pier Aldo Rovatti), Feltrinelli, 1983. idem, "Métaphysique, violence, sécularisation" La sécularisation de la pensée (sous la dir. de Gianni Vattimo, trad de l'italien par Charles Alunni), Seuil, 1988.

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