クリスチャンの品位と生き方
クリスチャンの品位と生き方
メッセージ2:クリスチャン女性の生き方
テトスへの手紙 2章3−5節
T.はじめに
先週から、私たちは「テトスへの手紙」をもとに、「クリスチャンの品位とライフ・スタイル」というシリーズを学んでいます。今回のシリーズでは、クリスチャンが罪から背を向けた後、どう生まれ変わって、イエスを信じ従っていくのかについてお伝えしていきます。
先週は、クリスチャン男性がどう変わっていくのかを学びました。今週は、クリスチャン女性に焦点を当ててみましょう。
テトス2:3-5「同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教えるものとなるように勧めなさい。そうすれば、彼女たちは若い女を諭 して、夫を愛し、子供を愛し、分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないようにするためです。」
U.年老いた女性への教え
年老いた男性を取り上げた後、パウロは次に年老いた女性を取り上げています。文脈の前後関係をもう一度見てみると、この教えはすべての女性に当てはまることが明らかにわかります。年老いた女性はまず見本として取り上げられ、そして、若い女性たちへの教えとなっています。
3節では、年老いた女性のあり方を次のように説いています。
@ 敬けんで信心深く、生活の中に、振舞い方や身のこなし方に、神の現存を自覚すること
A 他人を中傷しない
B 酒に溺れない。世間一般の考え方とは異なり、聖書では泥酔を重大な罪と捉えています。第1コリント 6:9-10 「思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の者を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」
単語の「人を悪く言う者(slanderer)」は、聖書NASB訳では「邪悪な陰口(evil gossips)」と訳されています。年老いた女性たちは「人を中傷する者」、または、「邪悪な陰口」にならないよう教えられています。ギリシャ語聖書では「ディアボロス」という言葉が使われています。これは他の箇所では、デビル、あるいは、サタンといった意味で使われています。
「あれこれいちゃもんをつける、偽りの情報を流すこと、悪いうわさをばらまくこと、陰口」という意味です。
陰口にはサタンの働きがあります。人生を死に追いやり破滅に導きます。パウロは「年老いた女よ、気をつけなさい! 悪に支配されず、神に従いなさい。」と説いています。
事例 「砂漠の導師の箴言」(=邦訳なし、仮訳)
「砂漠の導師の箴言」と呼ばれる、紀元4、5世紀頃のキリスト教の修道僧とその師による対話の記録集があります。
ある修道僧が師に次のように告げる個所があります。「信仰に迷いがあるので、ここを出ていきたいのです。」老師は問いました。「何があったのだ?」「実は、ある兄弟に関わる悪い噂を耳にしているのです。」と僧は答えます。老師は問い正しました。「本当の話か?」「本当です。耳打ちしてくれた者は信頼がおけます。」すると、老師は答えました。「そんな事を告げる者は、信頼のおける者ではない。信頼がおけるなら、そのような噂を口にすることはない。」
事例 – 2タイプのクリスチャンのメンター
2タイプのクリスチャンのメンターがいます。あるメンターは若いクリスチャンを受け入れ、そして、彼女と一緒に行動することによって、若いクリスチャンたちは従順と信仰を学びます。そして、敬けんさや寛容さ、心からの優しさを育んでいきます。
一方、別のメンターは、同じように若いクリスチャンを受け入れますが、彼女と一緒に行動することによって、若いクリスチャンたちは、批判や陰口を聞きます。すると、教会に対し、また、教会でのあらゆる活動や他の教会員に批判的になります。最後には、若いクリスチャンたちは傷ついた思いを胸一杯にしながら、教会を去ってしまうのです。
後者のメンターにはならないでください。そこにはサタンの介入があります。何もかも、嫌悪すべきものと教えてしまうのです。
年老いた女性たちは、サタンの目的のために自分の言葉をもちいるのではなく、神の目的のため使いましょう。陰口や中傷の代わりに「善良さを教え」、「年若い女性を諭す」ことをしなくてはなりません。
では、若い女性を教えるために必要なことは何でしょうか。4-5節によれば, 年老いた女性は若い女性を諭さなければならない。そうすれば、「夫を愛し、子供を愛し、分別があり、貞潔で、家事に勤しみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。」とあります。
この個所は、主に結婚した女性を対象としています。この場所には、独身女性もおられるはずです。ですが、今後のご自身のため、または、既婚者を支援する時のためにも、この教えが役に立つと思います。
6つのポイントが挙げられていますが、時間の都合上、今回はその内の3つに焦点を絞ってお伝えします。
@ 最初に、「夫を愛し子供を愛すること」、ここに、年若い女性の生き方の基盤があります。
A 次に、「家事に勤しむこと」、
B 最後に「夫に従うこと」です。
これらは、現代では、たびたび見過ごされがちな事がらです。
まず、最初の教えは、「夫を愛し子供を愛すること」です。クリスチャンになることの大きな特徴の一つは、愛する対象が変わるということです。キリストと出会う前、私たちは自己中心であり、自己愛主義者でした。人生は私のためにありました。しかし、今やもう造り変えられて、人生は神のため、そして、隣人のためにあるのです。
私たちは、もはやこの世の物事、世俗の誘惑、世俗的な基準を追い求めません。神と隣人の愛のために生きているのです。さて、最も身近な隣人とは誰でしょう? 家族です。既婚者なら、夫であり子どもたちです。
愛することを身につけることは、したい、したくないに関わらず、家族のために心のこもった行いが伴います。自分のことより家族の興味・関心を優先します。家族のためには、感謝や見返り、利益のためではなく、家族のためだけに自分自身を捧げる献身を含んでいます。
@ たとえ家族が愛するに価しないとしても、愛さなければなりません。
既婚男性の愛を獲得する方法A たとえ思いやりがなく、感謝の念がない夫でも、あなたは愛さなければなりません。
B たとえ子供の成績がよくなかったり、速く走れなくても、愛さなければなりません。
そして、愛することを示す最も大切なことは、自分の子供をイエスへと導くことです。これが子供たちのためにできるあなたの最も大きな愛の行動です。
年老いた女性たちが若い女性たちを教え導くことと同じです。人生は自分だけの欲望や利益、興味に左右されてはいけないということを教えるのです。これが愛するということです。そして、愛は消費するエネルギーなのです。今が消費する時です。全神経を集中することを求められるでしょう。しかし、愛することをつたえればいいのです。
年老いた女性は、年若い女性たちに「家事に勤しむ」ことを教えなければなりません。「家事に勤しむ」は、「仕事に励むこと」ではありません。「家事に勤しむ」は「家事に怠けること」でもありません。「家事に勤しむ」とは、「家で忙しくしている」ということです。では、その意味を考えてみましょう。
この「家事に勤しむ(to busy at home)」とは、ギリシャ語「オイクールゴス」の訳で、2つの語幹から成り立つ複合語です。
@ 「oikos(オイコス)」とは「住居、家庭、家族」を意味します。
A 「ergon(エルゴン)」とは「働く、務める」を意味します。
「家事に勤しむこと」とは、妻の主たる務め場所が家庭であることを意味します。神は、妻に家事や夫、子供の世話の責任をお与えになられました。分かりますか?これが愛を伴う始まりだからです。
ところで、これはもちろん夫や子どもが家事を手伝わなくていい、という意味ではありませんが、その家事の最終責任は妻にある、と言っているのです。なぜ最終責任が妻なのでしょう。なぜなら、それは重大な責任で、妻は手が一杯になるでしょう。
事例―salary.com
数年前、母の日の前後のことでした。ネットで「salary.com」というホームページを見た覚えがあります。400人の専業主婦の実態を調査した結果が載っていました。主婦業には、児童保育、家事、調理、パソコン操作、洗濯機操作、物置管理、ライトバン運転、(家庭の)執行役員業務、(家族への)心理カウンセラーとしての職務があることが判明しました。そこで、主婦が雇用された場合の賃金コストを計算してみたところ、主婦業は1年間で134,120ドルの賃金に相当すると出たそうです。月に換算すると11,000ドル、月収約90万円(1ドル82円換算)です。
もちろん、そんな金額は支払ってもらっていません。この調査結果は、家庭にはたくさんやらなければならない事があると告げているように思えます。
だからこそ、もし妻が外で働くことになりそうな時には、働くことが本当に家族にとって一番良い選択なのか、家族でよく吟味し祈ることが必要なのです。自分の時間のほとんどを家の外に抱えている妻には、ほとんど時間がない、あるいは、家庭や家族が必要としているエネルギーもほとんど残っていないでしょう。そのことで家族に影響がないとは言いきれません。
戦時下では、兵士が実際に戦闘を交える最前線があります。そして、補給部室で満たされ、兵士が体勢を整え、負傷兵が手当される前線基地があります。その前線基地にはそこで仕え働く職員が必要です。
負傷した兵士が基地に帰還したとき、基地が無人となっていて、物資もほとんどない中で、負傷兵同士で手当てを施さねばならない様なことは想像もしないでしょう。
子供と男性にどのように対処するか
私たちは信仰上の戦いの只中にいます。私たちは世俗的な物事を求めてはいませんが、この世で働いています。家庭とは、負傷兵が体調を整え回復をするような場所です。家族が平安と休息が得られ、そして、主に立ち返る場所なのです。妻にはその平安と休息を提供する高貴な責任が与えられています。
さて、妻が家の外で仕事をするのは間違っていますか? その答えは、妻の優先順位の置き所しだいと言えます。
@ 妻が家族の面倒をみるよりも非聖書的な、例えばキャリア志向、金銭目当に優先順位を置いて仕事をするなら、それは罪となります。妻が優先すべきこととは、夫や子ども、家庭の世話を通して神を崇めることです
A 妻の仕事がこの事に適っているなら、言い換えれば妻自身の欲望、世的な基準、自尊心からではなく、家族の必要を満たし熟慮しながら夫と話し合い祈り合った結果の末なら、他の者がとやかく言うべきことではないと思います。
B 子どものいない家庭や子育てが終わり、家事を中途半端にせず余暇に社会で仕事ができる妻だとします。その場合も誰も反対する人はいないでしょう。
そうは言うものの、いくつかの留意事項があります。
@ 働きに出た妻は、夫でなくクリスチャンのモラルも理解していない男の管理下に入ることになり、多かれ少なかれ職場での誘惑にさらされることになります。
A 仕事は、単にあなたの時間を奪うだけでなく別な出費、例えば交通費が伴います。
夫婦共々、何事にも真実から神を崇め、祈りをもって聖書から神の導きを求めるなら、神は必要な知恵と妙案を与えてくださります。
それでも、妻の人生における重要な職務は家族、家庭を作り上げることです。年老いた女性はこのことを若い女性に教えていかなければなりません。
3つ目、年老いた女性は、年若い女性の皆さんに「夫に仕える」ことを諭さなければなりません。
「仕える」は「服従する」ことで、軍事用語です。軍事命令下に入るという意味です。聖書の中には同じ教えが何度も繰り返し出てきます。
@ エフェソ 5::22 「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」
A コロサイ 3:18 「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。」
B 1ペテロ 3:1「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」
ご覧のように、聖書の中での教えは一貫しています。妻は、夫に従わなければなりません。これが、年老いた女性の教えです。
とはいえ、ご注意ください。このことは、男は女より優位にあることを意味していません。ガラテヤ 3:28 「そこでは……男も女もありません。あなた方はキリスト・イエスにおいて一つだからです。夫と妻との役割は異なりますが、対等なのです。
また聖書のどこを見ても、夫が妻を強制的に服従させても構わないとは説かれていません。そうではなく、妻自らが服従するようにと、命じているのです。そして、夫は妻を愛するよう命じています。エフェソ 5:25「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」
夫の責任とは、妻のために必要なら死ぬ程の覚悟で献身することなのです。
「夫への服従心」を語る時、その言わんとすることに当惑し全体像を見逃しがちになります。
男と女が結ばれた時、もはやふたりではなく、ひとりなのです。ふたりは一体です。一方が幸せになれば、もう一方も幸せになります。一方が不幸になれば、もう一方も不幸になります。ふたりはチームです。
どのような組織でも、誰かが最終的な決断を下さなければなりません。神は、その責任を夫にお与えになられました。
@ 夫は妻や家族を愛する証しとして物事の決断をしなければなりません。夫は利己心を捨て、己の得ではなく妻と子どもたちのために決断を下します。
A 妻も、必要な意見を夫に優しく言う必要があります。ただし、夫が出した結論により、妻が罪を犯す場合は神に従わなければなりませんが、そうでない限り妻はその結論を受け入れ、支えなければなりません。
愛をもって夫が決断を下し妻が自発的に従った時、そのふたりの結婚は、キリストと教会の関係が目に見える形で表現されたものとなります。夫の愛と妻の従順さを目にする時、人はイエスの御姿を見ます。
こういった夫婦関係には信仰の力が求められます。この世の夫たちは、イエスではありません。時には良からぬ、思慮のない、利己的な結論を下そうとする場合があります。
それに従うには夫への信頼ではなく、神への信仰心が求められます。神から下されたご命令だからこそ、夫に従うのです。そして、そんな自分の従順さを神が受けてとめて、最終的には家族みんなにとって最善の結果にしてくださると信じるのです。そして神はそうなさってくださいます。
信仰の歩みを踏み出して、神のご介入を見出す時、私たちの神とは何と畏れおおいものと感じることでしょう。その体験こそが、信仰の高まりであり、結婚の高まりなのです。 そのような体験を知り、目にした者こそが、生ける神のご栄光の証し人となります。
お子さんをおもちなら、子どもたちも、母親を通して神や神の真摯さを理解することになります。
信仰に徹することでこそ、体感できることです。この一事こそ、年老いた女性から年若い女性の皆さんにお教え願いたいことなのです。これが、クリスチャンファミリーのユニークさです。主を讃美する場所です。信仰が住まわれる場所なのです。
クリスチャンの女性がテトス2:5にある「神の言葉が汚されないため」に従って生きたとします。
そういった生き方こそ、周りの未信仰者への、とりわけ夫が未信仰なら、強力な証しとなるはずです。神に反抗する言い訳があるはずもなく、神のなす事にただただ驚異の目を向けるばかりでしょう。
余沢 武
TBC@渋谷&TBC@三郷
2011年1月15日&16日
指定の無い限り、聖書本文は新共同訳を使用しています。
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