2012年1月25日水曜日

離散性かディスクレか。。。 - 言語学の嘘(個体性理論と記憶科学) - 楽天ブログ(Blog)

discret という概念は日本語として普通に存在しない。フランス語でも、discret は、日常的には「控えめ」とか「めだたない」という意味で使われるが、離散性という意味は一般的ではない。

言語学をする人たちの中では一応この概念は「理解」されているようである。先日、あるフランスの言語学者とこれについて話す機会があったが、言語現象の基本が discret にあるという認識はちゃんともっていた。しかし私の考えるのは、どのようにして discret という現象が生じるという根本的な問いである。今の言語学界に、同じように考えている人は居ないようであるが。

今年の課題は、discret という概念に対する関心をどうやったら持ってもらえるのかを追求することにある。自分の中ではもう当たり前になっているが、他の研究者にとっては存在しない問いであることが他の人に私の研究への関心をもってもらえないことの原因であるからだ。

今考えているのは音韻論の再構築である。現在の音韻論は、音声が言語一般の基本であることが前提になっており(この点、手話は存在できなくなる)音声学がやはり基本になっている。私の目指す音韻論では、音声が基本にはない。認識単位の二極化というモデルがあり、これが音声と聴覚を使う場合と、ジェスチャーと視覚を使う場合、両方に適用出来る。

私は、手話を普通に扱えない言語理論は間違っていると単純に考えている。間違っているのであれば、新しい理論� �構築する必要があるはずだ。今の言語学界では、こう考えている人たちは殆どいないだろう。手話を研究している人たちも、音声言語言語を基本とする理論に異議を唱える人は少ないようである。

日本の手話研究もアメリカの手話研究の影響を大きく受けているようである。アメリカから来た「手話の音韻論」という拡大適用を疑問視し新しい理論構築の必要性を考える人たちが日本に今後増える事を祈るのみである。アメリカではこれが言語学界を席巻しているようで、あまり期待は出来ない状況にあるが。フランスの最近の事情は把握していないが、あまり変わらないかもしれない。

今年は手話法を学校教育に取り入れたフランスのド・レペ神父の生誕300年記念の年である。手話に新たな光が当てられる年になってほし� ��と思う。

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